全身写真家!森山大道からの熱いメッセージ

昼の学校 夜の学校

昼の学校 夜の学校

言葉では言い尽くせない情念が、濃厚な空気感のようなものになって溢れているような写真。
学生時代、そんな森山大道の写真に強く惹かれた。
ブレ・ボケを持ち味としたその写真はテクニックとは無縁なようで、自分でも撮れるんじゃないかと思ったりもしたが、それはとんでもない勘違いだったということを、この本は教えてくれる。
強烈な印象を放つ写真を生み出すには、テクニックなどという小手先なものを遥かに超えて、撮影者の内面に潜む狂気を解き放つ必要があったのだ。

[カメラを武器に世界と対話する]

やはり外界の一切がぼくの写真の世界であり社会であり現場であって、そうしたヌエのようなキリもなく計り知れない世界とたんに個にすぎない自分との絶えざる対話、カメラをセンサーにした対話をずっとつづけてきたような気がします。
p.16

[創作に必要な自己顕示欲]

自己顕示欲って何かを作る上においてものすごく重要なキーワードだと思うんですよ。
p.17

[森山大道の修業時代]

細江英公氏のもとでの)三年間の助手が終わってそのままフリーになったんです。けれどもちろん何一つ仕事なんてないわけですよ。(中略)
何を撮ればいいものか、もひとつ分からない。でも何か撮らないと何も始まらない。じゃあ何をテーマにしてどうすればいいのか、まったく分からない状態だったんですよ。
p.38-39

[撮りたいだけのオヤジ]

いつだってぼくは自分が時代や社会に向けて何ができるかなんてふうにまったく考えないんだよ。とりあえず、撮りたいだけのおやじなのよ。(中略)
ぼくが撮ったからといって世の中何一つ解決しないけれども、でもぼくは撮らなければ、ぼく自身についてすら見えてこないしね。ただ最低限、ぼくと関わる時代のほんの片隅のコピーだけはできるよね。
p.46

[肉眼レフカメラ]

〝肉眼レフカメラ〟なんていまでもほしいね。つまり、ぼくが目でチラチラ見たもののすべてが写っちゃうメモリーチップ入りのさ。
p.48

[森山大道の撮影スタイル]

それで何をやっているかというと、コンパクトカメラをジーパンのお尻のポケットに入れて街をうろつき歩く。(中略)まあ、カメラで日記をつけているようなものなんだ。(中略)つまりはお金いつもないんです。
p.60

カメラバッグなんてとんでもないですね。(中略)オレ本当はカメラもじゃまなんだけどさ。
p.185

[はじめに行動ありき!]

とりあえずやみくもにでもいいから、まず自分でやり始めないとね。それがあなた自身の写真のコードにつながっていくわけだから。
p.48

[写真は外界のコピー]

写された一枚一枚の写真はすべて外界の破片の複写であって、ぼくを含めてカメラマンは無数の外界を日に夜にコピーして収集しているといえます。その上でそれら収集してきた量の中から一冊の本(写真集)へ向けて、いままでばらばらに解体されていた断片としてのイメージをぼくの意識と意志によって初めて収束しようと試みるわけです。
p.50

[量のない質はない!]

皆さん、本当に沢山写真を撮ってください。絶対に沢山沢山撮ってください。ひとまず量のない質はない、ただもうそれだけです。ぼくの唯一のメッセージは。
p.51

自分のものを作った人たちって皆それはすごい量を撮っていますからね、例外なくね。
p.150

それをやらないかぎり自分と写真のスタンスなんて簡単につかめないです。そして写真作家にもなれません。以上です。
p.150

[依頼仕事への恐怖感]

ぼくは、依頼の仕事があると身がすくんで引いちゃう感じがあるんだよ。(中略)
突如依頼仕事が来ると逆に緊張しちゃって逃げ腰になってしまうの。
p.59

[撮る欲望体]

カメラを手に歩き始めると、一寸大げさに言えばなんかふと身体のありようが変わってくるのね。そうするとさ、目とか足とか、とにかく身体全体がある種撮る欲望体になるわけ。つまり、写すほうに細胞がシフトするんです。
p.63

[「私」が介在しない写真はつまらない]

ドキュメンタリーと称して、個の視点や肉声・肉体が稀有な写真は、結局報道のツールにしかすぎないと思う。ロバート・キャパの写真は、ぼくにすれば、ほとんど戦場を撮って「私」を写しているようなものだと思える。(中略)
そうした人間的な魅力をたたえた一人の人間が写した戦場だったからわれわれは感銘するわけです。いくらカメラがコピーする機械であっても、怒りであれ感傷であれ、写真には個と個ならざるものによる両義性という多重性があると思うんです。(中略)
「私」が介在しない写真というのは結局ありえないというふうに思います。
p.70

「写真は光と時間の化石である。」

p.84

[まず撮れ!とにかく撮れ!]

テーマだ方法だ何だかだと写真のあれこれについて考えることも大切だろうけれども、そのまえにひとまず、カメラにフィルムを入れて一コマでも多くの写真を撮っちゃうっていう、そっちのほうが結局重要かなっていう気がするんです。(中略)
あれこれ考えるのはさて置いてさ、まず沢山写真を撮らないとダメだぞ、と最近はそれだけを自分に言いきかせているんです。
だからかつては、こんなもの撮りたくないとか感じじゃないとか、気分じゃないとかごたく並べて撮らなかったっりしたこともあったけれど、いまはとにかく気になったらすぐ撮っちゃう。若いときの自分みたいにね。パッと撮っちゃうんだよ。それで、そのこともう忘れちゃうんだ。現像したときに、あ、こんなもの撮ったんだってまた発見すれば面白いしね。という感じで、いま写真とつき合ってるわけです。
p.86-87

[自分の内部に潜む欲望のありかを探す]

表現したい自分がいるということは、自分が世界が発するさまざまなメッセージを聞こうとすることでもあるし、また世界に向けて自分がメッセージを投げかけることにもつながっていくわけでさ。つまり、カメラを手段として自分自身を燃やしていく、自分にあるさまざまな欲望なり願望を明らかにしていくことだと思うしね。
p.88

写真の場合はまず一枚撮る、さらに一枚撮る、そしてまた一枚撮るというねずみ算的なショットのつみ重ねが量になり、そしてその量がハンパじゃなくなったとき、その中から質が生まれてくる。その量と質が結局、その人の欲望の正体であり表現の形なんです。
p.150

シャッター音のひとつひとつは、ぼく自身の心臓の鼓動のひとつひとつと同じだし、写したフィルムの一コマ一コマは、歩いてきた一歩一歩と同じです。
ぼくは欲望という言葉が好きで、すぐに使うんだけれど、ぼくという個人に根ざすさまざまな欲望そのものがすべて写真に結びついていく。それが撮る動機にもなるし、さらにまた欲望をあおるきっかけにもなっていく。そしてさらにそれが外界の認識や知覚にもつながっていくっていうかぎりないコードを辿っていくわけです。とにかく、欲望の涯しない循環、それがほかならない写真だと思っています。
p.168

[キツイ時は死んだふり]

とにかくキツイ時期は死んだふりをするんだよね。なんか写真ももうひとつだし、ええいもういいや、死んだふりしようって、グズグズのたうち回っているんだよ、水面下でブクブク底のほうでね。アメーバかボウフラみたいに。
するとフッとさ、ある日突然目先が晴れて、よしまた写真撮るかっていう気分になったりするんだ。いつまでも這いずり回っていられないしさ。突然写真だ写真だってまた始める。で、始めるとね、やっぱり自分が動き始めれば自然、周囲の人たちもそれなりに動いてくれるんだよね。
p.90

やっぱり人間ってさ、トーンダウンしていても本当にくたばるわけにないかないから、何としてでもやりすごしますよね。するとまた一年が終わって、という形で、気がついたら何十年もたってしまったという感じです。つまり、すべてそうした一年一年のつみ重ねにすぎないんです。(中略)
まあ設計してそのとおりに生きられるほど人生って易しくないものね。
p.179

[ときめきに忠実に]

どうしてあなたは何十年も飽きないで同じようなところへ出かけては同じような写真を撮っているんですかってよく言われるんだけど、でもぼくにとってはそれがルーティンワークなんです。何十年もやってきて見てきて、それでもまったく飽きないで、むしろ相変わらずときめくんですね。
p.122

[森山の創作のモチーフは「不安」]

ぼくの場合、なんか写真を撮ることも含めた日常の時間に四六時中おおいかぶさっているのは生とか死とかっていうことよりも、漠としていながら確実に身辺に充ちている不安ですね。ぼくが写真を撮っている唯一のモメントは、じつはこのキリのない不安に根ざしているように感じています。
p.138

[撮り続けるからこそ見えてくるものが必ずある]

撮ることによって見えなくなったり分からなくなっちゃうことだってあるわけで、沢山撮って全部が分かるなら苦労などなくて、迷路に入っちゃうというか、自分と写真とが肉離れを起こすこともあるんですね。
ただ、どちらにしても撮りつづけていかないとダメなんです。たいして動かないで考えて、あのスタイルもこのパターンもイヤだとか分かったとか言ってやめてしまったら、そこでおしまいなんですね。やはり撮ることによって変わっていくしかないんです。ダメならダメでやりつづける、変えようという意志よりも撮る意志によって変わっていくことのほうがぼくは正解だと思うし、自分にもそう言い聞かせているつもりです。
だから皆さん撮りましょうね、って話になるんですけれど。(中略)
要するに写真を一枚撮るということは、自分の欲望を一つ見つけること、対象化することですから。
p.149

[写真の神様はおっかない]

だから、生活の苦しさが怖くて気がかりな人がいたら早めに写真をやめたほうがいい。多少小ましな写真を作って、ニ、三べん個展をやって、それきりやめちゃったほうがいいよ、悪いこと言わないから。ミューズは優しいかもしれないけど、写真の神さまはおっかないから。
p.180

[写真は世界をあらわにするメディア]

写真を撮るにさいして、あらかじめ自分の中でこんなふうに撮れればいいなって思うことはあります。もちろんそれは脳裡で勝手に持つイメージです。でも、そのイメージを現実に表へ出て当てはめようとしたって、当然簡単に当てはまってくれるわけがない。そんなことを考えているよりも、考えているすぐ目のまえにすごいものが見えたら、一も二もなくそっちに触発されるしかないですよね。外界と、個の立場でつねに対応する、一瞬の対話をする、つねにそういう交差をしながら、外界に対してセンサーのように自分がなっていく。そうするとちっぽけな観念的なイメージなんて現実の前でしぼんでしまいます。内なる世界より外の世界の方が遥かに生々しいし刺激的です。つまり、写真はイメージを創作するためのものではなくて、世界を露にするメディアだと思うから。そう思いこんで撮りつないできたつもりです。
p.181

[自信!過信!盲信!]

写真にかぎらずものを作ろうとか、作りたいという人間は、基本的に人一倍自己顕示欲が強いです。(中略)
つまり、根っこには、すさまじいワガママがあると思います。
撮っているときに(後々)どう見られるだろうかなんてまず考えない。それを考えたときからつまらなくなると思う。やっぱり撮っているときというのは、自分の欲望のままに追い求めているわけだから。要するに、何だかよく分からない未分化で勝手なさまざまな理由によって撮ってるわけですからね、その自分の、わけの分からなさという理由のほうが遥かに大切なんです。(中略)
だからぼくは見る人のことはほとんど気にしない。つまり自分がよしと思えばひとまずいいわけです。どうせワガママな自己顕示から始まっているわけだからもう自信過剰でいいんだ。オレが一番だという自信、過信、妄信。たとえ虚妄でもそんな塊になってやらないとダメなのね。個人の勝手な欲望から生まれたものにリアリティを見たときに、初めて人は感動してくれるんだよ。そこがなくて作ったものは結局伝わらないと思う。
自分はもう一つうまくいかないんです。何を撮っていいか分からないんです。とか、いろいろやって考えた上でいまは写真から遠ざかっています。なんて言う人はダメですね。その感じ、分からなくはないけど、あえて自信、過信、妄信。馬鹿みたいだけど、重要なポイントです。ここからしか始まらない。
p.183-184

[量が最大の力になる]

若いときは百メートル歩いたら一本フィルムがなくなったぐらいに撮っていた(中略)
とにかくまず、何を突破するべきかという突破そのものの実態を自覚するためにも多くの量を写すしかありません。それで、その実態らしきものが見えたら、今度はその突破すべき実態に向けてさらに多量のフィルムを使うしかないのです。下手の鉄砲とかいいますが、スナップ写真はまさにそのとおりで、それ自体恥ずべきことではなくて誇るべきことです。よく「継続は力なり」と言うのも、むろんそのとおりなのですが、量もまた最大の力になるわけです。小手先の美学や観念で作られた写真なんて量が一蹴します。」
p.231

[路上からカメラマンが消えることは写真の自殺である]

肖像権のことばかりを考えると、ぼくらストリートカメラマンはやっていけないよ。最低限、自分の中にある写真的モラルを唯一のメジャーとして、あとは撮りたい欲望にしたがって撮るしかほかにやることないですよ。(中略)
路上からカメラマンが消えることは写真そのものの自殺ですからね。やるしかないですよ。
だって、写真家は他ならぬ人間の目撃者なんだから。
p.247

[写真とは]

写真は、つねに来るべき時間との一瞬の邂逅に生ずる、他に類のない装置であり、美も醜も、すべてを内包するしなやかなメディア
p.249