『〈私〉時代のデモクラシー』抜書き

 平易な文章でありながら、箴言に満ちた良書!



〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

〈私〉時代の「平等観」

 ・・・いまや、人は自分が他人と同じように扱われるだけでは納得できません。自分が他人と同程度には特別な存在として扱われることを求めるのです。
 先ほど、「およそ現代社会の特徴を捉えるために、〈私〉という視点が欠かせない」といいましたが、現代において個人主義は〈私〉の個人主義ですし、平等は〈私〉の平等です。価値の唯一の源泉であり、あらゆる社会関係の唯一の起点である〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人ひとりが強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人ひとりの自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが、〈私〉時代を特徴づけるのです。

p.viii-ix

 平等への欲求はかつてないほど先鋭化していますが、その平等を実現するための、他者との連帯・共闘の道筋は不透明になるばかりです。それどころか〈私〉の平等意識には、自分と同じような人間たちの一人に過ぎない自分、という独特の無力感があります。他者との紐帯が希薄化するなか、自分の「かけがえのなさ」にあくまでもこだわる〈私〉。と同時に、「大勢のうちの一人」でしかない自分の小ささを、痛いほど自覚している〈私〉。このような〈私〉の平等意識こそが、現代の平等問題の最大の特徴なのです。

p.41

答えなき時代だからこその、「デモクラシー」の価値

 デモクラシーは万能ではありません。デモクラシーが出す答えがつねに正しいとは限らないという批判は、ほとんどデモクラシーが誕生して以来、たえず投げかけられてきたものです。しかしながら、本書では、あえて主張したいと思います。デモクラシーは「正しい答え」が見つからないからこそ必要なのだ、と。

p.xi

すべてを〈私〉にゆだねる世界の危険性

・・・現代においていわゆる改革と呼ばれるものはすべて、すべてを個人の選択にゆだねることをキャッチフレーズにしてきました。「市場化」、「民営化」、「選択制」・・・・・・。しかしながら、このような方向性が行過ぎれば、社会を無化し、社会を〈私たち〉の力で変えていくことを不可能にしてしまう危険性があります。

p.xi

トクヴィルの平等観

 ・・・基本的に平等であるからこそ、さらに自他の違いに敏感にならざるをえないのが、デモクラシーの時代だとトクヴィルはいいます。

p.10

 トクヴィルがいう「平等化」の時代とは、人々の平等が実現し、安定した秩序が構築される時代ではありません。むしろ、人々の平等・不平等をめぐる意識が活性化し、結果として異議申し立ての声をあげた新たな勢力が政治の舞台に上がり、既存の秩序が動揺していく時代こそが、「平等化」の時代なのです。

p.12

 ・・・すべての価値を自分の判断に求めようとする平等社会の個人は、奇妙な不安定さに襲われるとトクヴィルはいいます。平等社会に生きる個人は、自分が他の誰とも等しい存在であることに誇りを感じます。しかしながら、このことは、他の誰と比べても自分が特別な存在ではないことも意味します。したがって、平等であることに誇りを感じる個人は、同時に、平等でしかないことに不安を感じるのです。

p.14

未来とも連帯できない現代の日本人

 家の伝統という時間の流れから切り離された個人は、次第に自分をより短い時間感覚の中で捉えるようになります。自分の生前や死後の時間を想像することは、個人にとってますます難しくなり、自分をそのような時間の継続性において捉える習慣もなくなっていきます。さらにいうならば、自分の死後のことはもちろん、自分の人生についても、長い先のことを想像することは難しくなっていきます。平等社会の個人の意識は否応なく「いま・この瞬間」へと集中していくのです。

p.30

霊友会の人に教えてあげたくなるフレーズ。霊友会の教義=先祖供養とは、過去との連帯であると同時に未来との連帯を意図したものなのか・・・。


プレカリアート」登場の背景

・・・現代社会のキーワードの一つである「プレカリテ」とは、このような意味での不安定性や脆弱性のことを指します。脆弱な立場におかれた人々は、古典的な意味でのプロレタリアート階級を形成せず、むしろ「プレカリアート」となります。積極的に階級や集団を形成することなく、欠如態においてのみ語られるという意味での「プレカリアート」は、まさに現代の、否定的な個人主義を象徴しているといえるでしょう。

p.53

福祉国家の機能不全

・・・福祉国家は機能不全に陥りつつあります。球団や階層として補足できない個人の運命に対し、福祉国家は有効な手を打てないでいるのです。結果として、失業をはじめとするリスクは、個人の人生の特定の局面において、あたかも特定の個人の運命であるかのごとく、襲いかかります。

p.57

「古典的な個人主義」と「現代的な個人主義

・・・現代的な個人主義は、近代社会の初期に見られた個人主義とは、まったく異質なものです。かつての個人主義においては、「個人であること」が求められる一方で、「およそ、個人とはかくあらねばならない」というモデルが、不可分のセットになっていました。伝統的な共同体から解放された個人は、近代の新たな秩序の中に秩序づけられることを求められたのです。学校においても、工場においても、病院においても、あるいは軍隊においても、個人は画一的なルールに従うことを強いられました。個人の自由が拡大する分、そのような個人を規律化するものも強化される必要があったのです。各個人に固有なものは「えり好み」として排除されました。
〈中略〉
 これに対し、第二の個人主義革命において、個人的な活動を動機付けているのは固有のアイデンティティの探求であって、普遍性の追及ではありません。このような第二の個人主義革命は、第一の個人主義革命に必然的に伴った、「巨大化」、「中央集権主義」、「非妥協的なイデオロギー」を破壊していきます。もはやいかなるものであれ、命令的、持続的に自らの価値と基準を他に押し付けることはできません。結果として、あらゆる選択、あらゆる矛盾が、追放されることなく共存することが求められるようになります。
 リポヴェツキー*1は、このような第二の個人主義革命を、消費社会によって実現した個人主義の大躍進であるとみなしますが、同時にこれが、より洗練された社会統制の手段であることも指摘しています。たしかに細々とした専制的な命令によって、社会を管理しようとすることは少なくなるかもしれません。権威主義的で機械的な統制も姿を消します。しかしながら、新たな「個性化」の社会もまた、管理や統制と無縁ではありません。むしろ、可能なかぎり最小の束縛と最大のプライベートな選択によって、より効率的に社会を管理することが、新たな社会的目標となります。流動的で非規格化したかたちではありますが、権力や管理装置によって練り上げられたプログラミングによって、人々の欲望は刺激され統制されるのです。今日、いわゆるアーキテクチャー権力(環境管理型権力)が語られているのも、この延長線上に理解することが可能でしょう。ITテクノロジーの発展とともに、人々の行動は、人々がそれとして意識されないうちに、監視され統御されています。人々は実際にはあらかじめ設計されたシステムによって誘導されているのですが、主観的には自らの欲望と意志に基づいて行動しているつもりでいます。
 このような社会において、人々はますます自分に関心を払い、若さ、スポーツ、リズムを渇望し、人生に成功すること以上に自己実現に執着します。健康、エコロジー、カウンセリングを志向する文化でもあります。このような個人主義を、リポヴェツキーは「ポスト・モダンのナルシシズム」と呼びます。未来における社会変革に期待するよりは、むしろ私的領域における自己実現を追及するという意味で、「革命の個人」は「ナルシス的個人」に道を譲ったのです。

p.61-63

★自分の子供を私立幼稚園に通わせようとする親なんかも、典型的な「ポスト・モダンのナルシスト」かな。というか、辺りを見回せば、世の中は確かにそんな連中であふれている気がする。


“息苦しさ”を生む現代社会の特徴

・・・自己コントロールの能力が、およそ万人の徳目として要求される点にこそ、現代社会の特徴が見出せる

p.73

 セネット*2が、このような「ノー・ロングターム」*3の社会において危機に瀕するものとしてあげているのが「人格(キャラクター)」です。人格とは本来、長い時間をかけて陶冶すべきものです。人間は、その人生の折々でさまざまな変化と出会い、それにあわせて思考や感情の揺れ動きを経験します。にもかかわらず、人はやがて、そのような短期的な揺れ動きを超えたより長期的な目標、より長続きする信頼や感情を持つようになります。またそれに付随して、より持続的な人間関係、それに基づく信頼や共感の関係を形成していくことになります。「人格」とはまさに、このような長期的なかかわりとともに発展していくものであるはずです。
 しかしながら、短期的に成果を求められる社会において、いったい「人格」を陶冶していく余裕などあるのでしょうか。長期的な目標の追及や、永続的な社会関係の維持が困難な社会にあって、すべては挿話(エピソード)や断章(フラグメント)の寄せ集めのように見えてきます。そのようななかで、人はどのように自己のアイデンティティを構築していけばいいのでしょうか。

p.81

セラピーという名のイデオロギー

 セラピーとは、自分を知ること、自分が何を感じているのかを知ること、そしてそのことを通じて、自分と他者の関係を調和あるものにしていくための技法とされています。ほんとうの自分がわからないために、自分を大切にできない人。さらに、自分を大切にできないために、結果として他者との関係もうまくいかない人。セラピストは、このような人々に、自分を見つめ直すことで、悪循環から脱することができると語りかけます。
 セラピー的な発想の根源にあるのは、全ての出発点は自己にあるという考え方です。自己こそが他者との関係の源泉にあるのだから、自己を再発見することが他者との関係改善の第一歩になるというわけです。もし他者と深いつきあいをすることができないと悩む人がいれば、セラピストは「それは、あなたが自分を受け入れることができないためです」と語りかけますが、それがまさにセラピー的な「イデオロギー」にほかならないと、ベラーは指摘します。
〈中略〉
 セラピーの効用としてしばしば強調されるのが、感情のマネージメントです。つまり、セラピーによって自分を知れば知るほど、自分の感情をより効果的に「処理」できるようになるというわけです。さらには、自分の感情をうまく処理できれば、自己表現も自己主張もより効果的になると、セラピストは説きます。
 しかしながら、ベラーにいわせれば、このようなセラピストの「イデオロギー」は、実に過酷なものにほかなりません。人は休むまもなく意識を張りつめ、自己と他者の感情を絶えずチェックしなければならないからです。そして自分の感情や対人関係を、費用と利益の収支バランスという支店から計算し続けなければなりません。いわば、セラピーの文化とは、個人が社会で暮らしていくなかでの困難を、すべて自分の「心」の問題として受け止め、自己コントロールしていくことを求めるものなのです。

p.78-79

*1:『空虚の時代−現代個人主義論考』ジル・リポヴェツキー 法政大学出版局・2003年

*2:リチャード・セネット。アメリカの社会学者。『それでも新資本主義についていくか−アメリカ型経営と個人の衝突』ダイヤモンド社・1999年

*3:“長期思考はだめ”。セネットが現代社会に適応するために必要な行動や原則とした概念。