リアルな中世像

司馬遼太郎歴史小説は面白い。
しかし、その歴史観に洗脳されすぎても困る。
ということで、歴史小説の世界ではあまり出てこない支配される側のことを詳しく知りたいと思い、手にした一冊。
英雄を中心に描かれた戦国史とは違った、リアルすぎる歴史に思わず興奮する。

人身売買が日常だった中世

一つの城が落ちると、城下には人間を売るための市が立った。
p.72

海外にも直結していた人身売買ネットワーク

島原半島に集められた人々は、さらにポルトガル船に乗せられて海外へ売り飛ばされていった。国内における人間の販売ルートは、海外の販売ルートとも直結していたのである。
p.74

戦争=「生命維持装置」

村人にすれば、戦場は?食うための戦場?にほかならなかった。もちろん戦死するリスクも高い。しかし、何もしなければ一家の生活が成り立たない。それが戦場に行けば、兵糧が支給され、恩賞も期待できる。さらには掠奪もできる。村に残された家族にとっても、その間は口減らしになった。
こうして人々は、リスク覚悟で雑兵となって戦場におもむいた。まさに過酷な生活環境が、食料と領土を求めて戦う、戦国争乱の激しさと広がりを巻き起こしていたのである。
戦国の戦争は、村人たちが生き残るための生命維持装置として、生活のなかにしっかりと組み込まれていた。
p.91

上杉謙信の軍事行動のパターン

謙信は夏や秋には春日山城新潟県上越市)から近い北信濃川中島)や北陸へ出兵し、夏の麦や秋の稲の収穫を狙った。そして、収穫が終わり、三国峠が雪で閉ざされる直前になると、きまって関東に侵攻して各地で掠奪を繰り返し、春の雪解けとともに越後国に引き上げる行動を繰り返した。この時期、越後国は雪に閉ざされ、攻める敵などいなかった。謙信は、この越後の豪雪を天然のバリケードにして、生活にあえぐ越後の人々を連れて、関東に攻め込んだのである。上杉憲政から譲られた関東管領の地位は、その戦争を正当化した。
しかも、謙信がくりかえし関東へ侵攻する1560(永禄3)年から1574(天正2)年にかけて、越後国は、水害、旱魃、凶作、飢饉、疫病にあいついで襲われていた。このため、関東で略奪をおこない、生活の糧を稼いで、越後に戻れば、暮しにも少しの余裕が生まれた。冬の農閑期に村を出て、春に戻る−それは近年まで盛んに行なわれていた由紀の多い地方から、年への出稼ぎと同じ行動パターンだった。
この点から藤木久志氏は、『越後人にとっても英雄謙信は、ただの純朴な正義漢や無鉄砲な暴れ大名どころか、雪国の冬を生き抜こうと、他国に戦争という大ベンチャービジネスを企画・実行した救い主、ということになるだろう。しかし襲われた戦場の村々はいつも地獄を見た』(『雑兵たちの戦場』)という新しい謙信像を提示している。