『世に棲む日日(一)』
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2003/03/10
- メディア: 文庫
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武士道の定義
玉木文之進によれば、侍の定義は公のためにつくすものであるという以外にない、ということが持説であり、極端に私情を排した。
p.24
吉田松陰にとっての武士道
「武士というものは殿様より知行をもらい百姓どもに養われているものである」
いわば武士とは公への奉仕者であり、その奉仕者としての自分を消極的に規律する徳目は節約であるという。
p.101
日本人の友情
もともと日本人の倫理は忠孝をやかましくいうが、横の関係である友情や友誼についてはさほどに言わない。
この倫理が日本人の中に鮮明になってきたのは、むしろ明治後、西洋からそういう思想が輸入されてからだといってもいい。
p.139
松蔭の禁欲
要するに人間には精気というものがある。人それぞれに精気の量というものはきまっている。松蔭によればよろしくこの精気なるものは抑圧すべきである。抑圧すればやがて溢出する力が大きく、ついに人間、狂にいたる。松蔭はこの狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。
p.149
村田清風のことば
「砲技に達せざる者は兵を論ずるなかれ。孫呉に通ぜざるものは砲を語るなかれ」
鉄砲の操作や部隊の進退法に達しないものは戦術を語るな。その逆も真である。孫呉(孫子・呉子、戦術)に通ぜぬ者が、実技を論ずるな、ということである。
p.180
松蔭の攘夷
(吉田松陰がアメリカ人を豪傑と称していたことについて)
このあたりが、この若者の奇妙さであったであろう。かれは、攘夷家であった。しかしながら他の攘夷家のように、日本国土に宗教的神聖さがあるとし、かれら墨夷の靴によってその神聖国土が瀆されるといったふうの情念のようなものはあまりもっていなかった。かれの攘夷は、奇妙なほどに男性的であった。
おおかたの攘夷は、日本人の対外感情の通性がそうであるように、女性的であった。松蔭は、ちがっている。海を越えてやってきた「豪傑」どもと、日本武士が武士の誇りのもとにたちあがり、刃をかざして大決闘を演ずるというふうの攘夷であった。このため敵を豪傑として尊敬するところが松蔭にはある。
p.257
ペリー
ペリーは浦賀にくる前に、琉球に寄り、那覇に艦隊を入れ、琉球政府に対し、琉球の一港を租借して、将来極東を航行する米国艦隊の貯炭地をつくりたい、という旨を申し入れた。琉球政府は、これをえんきょくにことわったが、ペリーはその志を捨てなかった。さらにペリーはこのあと、艦隊をひきいて小笠原群島にゆき、その群島を探検し、ここをもって将来における米国の植民地たるべきことを予定する旨、艦隊内部で発表した。
p.265
松蔭の「師道論」
(吉田松陰の)師道論によれば、なぜちかごろ師道がゆるんだかというに、師が報酬を取るからである、という。江戸の師のほとんどが幕府や諸藩から禄をいただいているのになおそのうえに弟子から報酬をとる。つまり講ヲ売リテ耕ニ代フルといった商売人であり、それがまちがっている。さらに根源的にいえば、人間に師や門人という立場があるはずがない、「師弟ともに、もろとも、聖賢の門人と言うもの」であり、みだりに師と言い、弟子と言うことは、第一古聖賢に対して無礼ではないか、というのが、嘉永四年のころの松蔭の気持ちであった。
p.305
松蔭は人文地理を重視した
「地を離れて人なく、人を離れて事なし。故に人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を観よ」
・・・・・人は地理的要因に制約されている。まず地理的環境をくわしくみれば、そこに住む人間集団の大体がわかる。その人間集団−社会の解明を離れて、事柄というものは出てこない。ゆえに、社会と社会現象を見ようとすればまず地理からはじめなければならない、という。
p.306