負の歴史こそ価値ある遺産

日本の愛国心―序説的考察

日本の愛国心―序説的考察

 一気に読了した・・・。少々興奮気味である。しかし、その理由は本書のテーマである『日本の愛国心』に関する著者の考え方を手放しで賛同したいからではない。本書を貫く、日本近代史への著者の視点=「明治において日本が歩みだした近代という試行に孕まれた矛盾」を徹底的に暴き出してくれたことにある。


 西洋近代文明の猛威から国を守るべく懸命に「近代化」を遂行せざるをえず、その結果、本来守るべき「日本的なもの」を失い、さらに敗北を予感しながらも、アジアへの侵略、対米英戦争へと突き進むしかなかった近代日本。その「悲しき宿命」が痛切に胸に響いたのだ。そして、その悲痛な歴史を戦後の日本社会が他人事のように切り捨ててきたことの虚しさ、疚しさ・・・。アメリカに追従するだけの主体性の無い奴隷国家のような様相を帯びてきた現代日本の現状は、その歴史の抹殺に遠因があるような気がしてならない。


 「近代」とどう向き合うか、それをどう乗り越えるか−。明治維新以降、多くの日本人がこの命題に対して思想的・哲学的格闘を繰り広げてきた。しかし、戦後の日本は、そんな試みを敗戦と同時に戦争イデオロギーとして断罪し、廃棄処分にしてしまった。なんという損失だろう!!


 今なお、“あの戦争”に関しては「侵略戦争(間違った戦争)」vs.「自衛戦争・アジア解放戦争(正しい戦争)」という不毛な二項対立が続いている。しかし、近代日本が背負わざるをえなかった「悲しき宿命=ジレンマ」に照らせば、“あの戦争”で死んでいった人々を、安易に“犬死に”だの“英霊”だのと称することは憚られる。戦争責任を天皇をはじめとした“日本的なもの”に押し付け「総懺悔」するのでもなく、戦争を正当化するためには従軍慰安婦南京事件も沖縄の集団自決も無かったことにするような「歴史の修正」をするのでもない。私たちがしなければならないのは、「近代」に直面し必死にもがき続けながら“あの時代”を生きた人々の叫びを、まずは真摯に受け止めることなのではないだろうか。


 世界が近代化の極致ともいえるネオリベラリズム、マネー資本主義、そしてグローバリゼーションの波に覆われ、私たちの暮らしが破壊しつくされようとしている今日−。そんな時代だからこそ、60年以上も前に「近代の超克」を目指して格闘した西田幾多郎保田與重郎ら先人たちの思想は、私たちにとって掛け替えのない遺産として蘇ってくるような気がしてならない。