とまどう視線 映画『バックドロップ・クルディスタン』

野本大監督・バックドロップフィルム・2007年製作

 『ドキュメンタリー制作者に必要な資質とは、自らのテーマに対する疑念や不信に直面した際、そこで足を止めずに現実を受け止め、ひとつひとつ事実を追い求めていくことなのだ』
 そんなことを改めて実感させてくれた作品。青山の国連大学前を家族ともども“不法占拠”し、「私たちはトルコで迫害を受け続けた」と訴え、日本での永住を求め続けていたクルド難民のアーメットさん一家を密着取材したドキュメンタリー映画だ。序盤はとにかく、アーメットさんの怒りの激しさに圧倒される。表情がものすごいのだ。つたない日本語を駆使しながら、自分たちを難民として認めない日本政府を罵り続ける。そのテンションの高さが、半端じゃない。まさに、「必死」。その激しい怒りは、アーメットさん自身の心身をも痛めつける。


 おそらく、このアーメットさんの「必死さ」に突き動かされて映画づくりは始まったのだろう。アーメットさんの怒りに共感する形で映画は進む。しかし、義憤や共感だけでは、クルド難民を受け入れない日本政府に対する監督の義憤しか伝わってこない。そこで終わっていたら、よくある告発型ドキュメンタリーで終わっていたはずだ。だが、「トルコでの迫害は虚偽」との理由で、あっけなくアーメットさん親子は強制送還されてしまう。その真偽をアーメットさん自身に質す時間もなく・・・。


 そこからだ。この作品がドキュメンタリー映画として輝きだすのは。


 クルド難民は圧倒的に被害者であり、彼らを受け入れない日本政府・トルコ政府は間違っている。そんな自明と思われていた構図に対して芽生えたちょっとした疑念。アーメットさんに対する微かな不信。本当のことが知りたい!という衝動。真相を求め、監督はトルコへ飛ぶ。しかし、果たして自分の探し求める答えが、そこにあるのか?想定していなかった事実との遭遇の連続は、ますます監督を混乱させる。その戸惑いが画面から伝わってくる。そう、この「とまどう視線」というものこそが、ドキュメンタリーに生命力を与えるものなのではないだろうか。


 現実を安易な仮説や思い込みに無理やり押し込むことをせず、分からないことには正直に分からないと表明すること。観る側も自分の頭で必死に考えなければならない。答えは、なかなか手に入らない。しかし、現実の中には様々な矛盾が潜んでいること、答えは複数存在するかもしれないこと、そんな捉えどころのない混沌とした世界の中にあっても大切にしたいと思える何かがあること、そして世界は喜怒哀楽に満ち満ちていること、そんなこんなをそのまままるごと感じさせてくれる瞬間に、その作品は観る者の心に何かを刻み付ける。その何かとは、よく分からないのだが、もしかしたら生きてることの実感みたいなものなのではないかと思うのだ。


 ところで・・・。劇場で上映されるドキュメンタリー映画の多くは、ナレーションもなく、テロップも必要最小限。そのおかげで、登場人物の表情や意図せず写りこんだ情報にも気を配れる。これって、とても重要なことではないだろうか。与えられた情報を自分なりに取捨選択し、作品のメインストリームとは異なるサブテーマを観客自らが紡いでいけるのだから。矢継ぎ早に情報を連打されるテレビ的手法では不可能な知的作業が共有できる。ネット社会によりますます高度情報化が進む今日、逆説的ではあるけれども情報密度が粗いこうしたドキュメンタリー映画的表現こそが求められているのではないかと感じた。これって、“松岡正剛”流の編集工学がいわんとしているところにも通じるのではないか・・・。