『私の体験的ノンフィクション術』

私の体験的ノンフィクション術 (集英社新書)

私の体験的ノンフィクション術 (集英社新書)

つねに肝に銘じておきたい金言集!

『“小文字”で語れ!』

宮本常一の文章で私が感銘を受けるのは、「知」を自負する狭い閉鎖集団にしか通用しそうにない隠語めいた「大文字」言葉を一切排し、誰にでもわかる「小文字」言葉で全編語りながら、そこにまぎれもない生きた人間の声が定着していることである。
p.9-10

『腑に落ちるまで、粘る!』

取材は最終的には「確信」と、それを裏づける事実を草の根をわけても探し出す「粘り」である。
p.159

『“登記簿”は情報の宝庫』

企業を取材する際はいうまでもなく、個人を取材するときも登記簿の閲覧は重要な情報源となる。
目的欄を閲覧することで、その企業が当初何を目論んで設立されたかがわかるし、役員欄を閲覧することで、その企業の影のオーナーがみつかることも少なくない。
p.161

『ノンフィクションの言語』

いかにももっともらしい言葉の殻を食い破り、誰の胸にも破壊力をもって伝わる血肉を備えた言葉でなければならない。
p.172

『業界用語に頼るべからず!』

「政治モノ」を書くとき政治用語だけで書き、「経済モノ」を書くとき経済用語だけで書くライターは、知らず知らず「素人」の疑問を封殺した「業界ライター」になっていることを自覚すべきである。
井上ひさしがいっているように、「難しいものを易しく、易しいものを深く、深いものを面白く」書くのが、もの書きたる者の王道である。たとえそれがどんなに困難なことであるにせよ、もの書きたる者はそれをひそかな目標にしなければならない。
p.186-187

『ノンフィクションとは固有名詞と動詞の文芸である』

形容詞や副詞の修飾語は「腐る」が、固有名詞と動詞は人間がこの世に存在する限り、「腐らない」。
いいかえれば、固有名詞と動詞こそが、人類の「基本動作」であり、「歴史」である。
p.10

『情景が浮かぶように書く』

自分の頭のなかで書くべきものを一度映像化し、それをシナリオのように言語化する。
・・・・・・
映画をみて感動したとする。それを家に帰って言葉で再構築するだけで大きな習練となるはずである。
大切なのは、映画のあらすじを書くのではなく、自分が感動した映像表現を、言葉に移しかえてみることである。
・・・・・・
映画における「絵」はノンフィクションにおける地の文であり、「声」は登場人物の証言や台詞である。
p.54-55

『戦後ルポルタージュの傑作』

泡立つような東京オリンピック前後の世相を描破した開高健の『ずばり東京』。
人物ノンフィクションでは、文士たちの素顔をあますところなくスケッチした同じく開高の『人とこの世界』。

『取材対象者の語り口を大切に』

「小文字」だけで「世界」を描くことがノンフィクションの要諦。
それはいいかえれば、相手の「語り口」だけで「情景」を浮かび上がらせるということである。
地の文はあくまで「台詞」を浮き立たせるためのもので、なるべく簡潔な方がよい。
p.58

『テーマは、どう生まれるか?』

ノンフィクションのテーマは、外部にあるものではなく、生きる過程で自分の中にマグマのように溜まってきた名状しがたい感情のなかにある。
その感情に言葉で何とか決着をつけることが、私のもの書きとしての出発点となった。
p.73

『テーマは、どう生まれるか?』

私生活の「体験」を書くだけではノンフィクションとはならない。
より正確にいえば、「体験」を書くだけでは狭くやせ細ったノンフィクションにしかならない。
自分の「体験」をより広い時間軸と空間軸の中に放りこむことで、自分の「体験」が作品のなかで意味をもちはじめる。
そして、「体験」を光源とした文脈のなかで、ノンフィクションの結構がつくられてくる。
p.75

『仮説や思いこそ、ノンフィクションにいたる最初の入射口である』

p.76

『「取材」とは「発見」である』

「取材」とは「発見」であり、その「発見」がまた新たな「取材」行為を生み出し、真実をさらに深化させてゆく弁証法的な足どりのことである。
p.78

『「いいテーマ」とは、テーマ自身が時間とともに成長していく課題のことである』

p.79

『ノンフィクションを書くにあたって最も大切なことは、まず自分なりの「仮説」をたてること』

p.88

『「仮説」が「事実」に裏切られた時からが勝負!』

「事実」によって裏切られた自分の「仮説」をそこで軌道修正することによって、「事実」をとらえる力の深度がケタ違いに深まる。
ノンフィクションライターの力量とは、けだし、「仮説」が「事実」によって裏切られた時点でひき返してしまうか、それとも、それを新しい「謎」として受け止め、さらなる「事実」追求に向かって自分を鞭打てるかどうかの差である。
p.119

『キーパーソンを逃がすな!』

ノンフィクションは追いかけっこの要素を多分に含んでいる。
生きる証人がいるうちに会わなければ、その証言は永久に消えてしまう。
キーパーソンを見つけたら、とにかく駆けつけて話を聞く。
ノンフィクションライターには、何よりもまず、このフットワークの軽さが要求される。
p.112

『取材対象者へのアプローチの秘訣』

一人の人間を訪ねる。話を聞いて取材を終える。そのあと私は必ずこう尋ねることにしている。
「あなた以外にこの点についてご存知の方はいないでしょうか。もし心あたりの方がいらっしゃったら、申し訳ありませんが、紹介状を書いてもらうなり、連絡していただくことはできませんでしょうか。それが無理なら、連絡先だけでもお教え願えないでしょうか。」
・・・・・・
人から人へと情報を当たっていくということは、結局、足をいかに使うか、骨身をどれだけ惜しまないかということに尽きる。
p.114

『ムダを惜しむな!』

ノンフィクションとは、どれだけ無駄を重ねられるかで作品の質が決まる文芸。
宮本常一流にいえば、資料収集の過程でどれだけ「道草」をくえるかが重要なポイント。
p.107-108

『情報と情報が衝突することで新たな価値が生まれる』

情報というものはピンポイント的に存在するのではなく、別の情報と響き合うことで価値をおびてくる。
情報をどれだけ羅列されても、人は感動しない。
情報と情報を「人間観」や「歴史観」の紐でバインディングすることで、もっといえば、情報と情報をあえて「衝突」させることで、「情報」ははじめて「物語」を動かす歯車となる。
p.123

『誰も見向きもしそうにない話を拾い集めろ!』

ノンフィクションの要諦として、よく「神は細部に宿りたもう」という言葉が引き合いに出される。
大筋からみて一軒関係のない話、誰も見向きもしそうにない話をどれだけ集め、それを全体のなかにどうちりばめていくかが、私が持論とする「小文字」で書くということの具体的な意味である。
p.197

『「みたことがないもの」は書かない!』

これがノンフィクションであろうと何であろうと、文章を書くときの鉄則である。
p.201

『ノンフィクションの最重要要素』

?自分だけの視点
?独自の切り口
?埋もれていた人物の発掘(→必然的に独自の切り口の創造につながる)
p.206

『ノンフィクション執筆の最大の原動力』

自分のなかに生まれるモチーフの内発的衝動の強さ、他人がなんといおうが決して降ろさない志の旗の高さ。
p.223-224

『「成し遂げた者」だけが味わえるもの・・・』

この仕事を20年以上つづけてきて一番強く思うのは、どんなに人を拒み続けてきた「魔の山」のような世界にも必ず可憐な花が咲いているという確信である。
もう一つは、山は頂上まで上らない限り、次に登るべき山は絶対にみえてこないということである。
頂の見晴らしに立ったとき、もう一つの山が自分を呼んでいるという不思議な感覚を、私は何度も経験してきた。
p.230

『成果を人にお返しする』

宮本常一は、人文科学が尋問科学になってはいけないと述べている。
学問研究は、ややもすると、対象から収奪するだけの結果になりがちだが、宮本はそうした一方通行の回路を断固として拒絶し、民衆から得た知識や情報は民衆に返す、という姿勢を貫いた。
そこに「世間師」としての宮本の自負があった。
宮本の文章に流れる何ともいえないぬくもりも、おそらくそこからきている。
p.236

柳田国男による民俗学の定義』

かつてこの国土に生まれたもの、現にこの国土に生活しているもの、そして将来この国土に生まれてくるもののための学問。