私と他者が“ひとつ”になったとき、「術がかかる」


こんな日本でよかったね─構造主義的日本論 (木星叢書)

こんな日本でよかったね─構造主義的日本論 (木星叢書)

 武道の稽古をしていると、不思議なことがいろいろわかってくる。
 術において相手の「虚を衝く」ということができるのは、相手と私の間に「親密性の場」が成立する場合だけだ、というのもその一つである。
 私と他者が敵対的な個体にとどまっている限り、「術」はかからない。
 私たちが稽古している「抜き」や「浮かし」や「気の感応」といった術理は、まさしく自他の「親密性」の創出のためのものである。
 「先を取られる」と、私たちの身体は自動的に「先」を「追う」ようになる。
 それは甲野善紀先生の術語を借りれば「身体がセンサーモードにシフトする」ということであり、皮膚感覚の感受性が最大化し、筋肉がゆるやかに伸び、目が半眼に閉じ、相手を「受け容れる」体制になる、ということである。それはある種のエロス的な体感に近い。
 武道はこの擬制された自他の親密性を利用して、相手を制し、傷つけ、殺す術なのである。「術がかかる」のは、私と他者が「ひとつ」になったとき、つまり私の手足のような、私自身の分かちがたい、親しみ深い一部になったときにのみ、活殺自在の術は遣うことができる。

p.228-229


井上雄彦が『バガボンド』で描こうとしていることって、こういうことなんだろう。
 それにしても、内田樹はなかなか深い。