明治維新の「柔構造」


明治維新 1858-1881 (講談社現代新書)

明治維新 1858-1881 (講談社現代新書)


明治維新後の国家目標は4つあった。

  1. 殖産興業(大久保利通
  2. 外征(西郷隆盛
  3. 議会設立(板垣退助
  4. 憲法制定(木戸孝允

これらのグループ間で合従連衡を繰り返す「柔構造」*1が、明治維新後、日本が欧米列強の植民地にされず、さらに“開発独裁”のような統治スタイルに依らずに国家の近代化を急速に達成できた鍵を握っている。

 ここで重要なことは、幕末期と維新期のいずれにおいても、各派は単独では充分な政策実施能力を欠いており、他の一、二派と連携して政府内に「連合」を形成することにより、ようやく自派の政策を他派のそれとともに追及することができたという点である。
 外征論であれ民選議院論であれ殖産興業論であれ、一派の突出は他派の牽制を招き、一派の挫折は他派が補完した。しかもこうした連携と牽制の関係は固定されておらず、状況変化に応じて数年ごとに組み換えられた。いったん対立したグループ間に修復しがたい遺恨が生じるというような事態もほとんど見られなかった。
 一見政争の連続に見えるこの過程は、意外に混乱に陥ることなく、実験と失敗を重ねながらも長期的には複数の国家目標を達成することができた。

p.27


 明治維新を達成させた二つの基本目標であった富国強兵と公議輿論が、それぞれ二分して富国派と強兵派と憲法派と議会派の四つに分かれたというと、明治政府は四分五裂してしまったように響くが、著者らの解釈は逆である。むしろ我々は、この四分五裂を一種の柔構造の成立であったと考えたい。富国強兵と公議輿論を現代風に言い換えれば、日本を民主主義を導入したうえで経済大国と軍事大国になることであった。二世紀半にわたって鎖国をつづけてきた東アジアの小国にとって、とうてい達成不能な大目的が設定されてしまったのである。それが維新後四つの目標と四つの勢力に分裂したために。一つの目標の挫折は他の三目標の推進でカバーし、一つの勢力の突出は他の三勢力の連合で封じ込めることができたのである。

p.87

*1:国家目標と指導者の基本的組合せ〈上図参照〉