「キューバとアメリカ・意外な親密関係」

反米大陸―中南米がアメリカにつきつけるNO! (集英社新書 420D)

反米大陸―中南米がアメリカにつきつけるNO! (集英社新書 420D)

「反米」という主題よりもむしろ、キューバアメリカの間に意外な緊密関係があることに興味を覚える。

緊密化しているキューバアメリカの経済関係

2001年には、アメリカとの貿易が再開した。アメリカは1962年からキューバに対して経済制裁を続けているにもかかわらず、貿易が行われるようになったのだ。その後は、アメリカ南部の港を出た大型貨物船が、ハバナ港に毎月入港し、大豆やコメなどの穀物、鶏から生きた牛に到るまでの食料品を荷揚げしている。
きっかけはハリケーンだった。2001年秋のハリケーンで、キューバは大きな被害を受けた。このときアメリカは9・11のテロの直後で、反キューバより、反イスラム・アラブ感情が強かった。アメリカ政府は人道的見地から、キューバに緊急の食糧援助を申し出る。これに対してカストロは、『経済制裁している国から施しを受けるのは嫌だ。食料をもらうのではなく買おう」と言い出した。こうして、総額3500万ドルの販売契約が結ばれ、実質的に貿易が再開したのだ。
限定的に再開した貿易だが、最初の1年間の貿易額は1億7400万ドル、2年目は4億1600万ドル、と年々増えている。2年後にはキューバの輸入相手として、アメリカは第5位。アメリカにとってキューバは、2000年まで貿易相手の226位、つまり輸出量世界最下位だったのが、2003年には、一挙に第35位に浮上している。
p.185-186

経済制裁緩和を待望するアメリカの農産物業界

イリノイ州を中心とするアメリカの農産物業界は、実はキューバとの貿易を待ち望んでいたのだ。世界中に余剰農産物を輸出しようとするアメリカの農業界にとって、キューバ中南米の中でもアメリカに近く、人口もカリブ海で最大である。つまり有望な市場なのだ。輸送費は安く済み、確実に支払ってくれる。他の中南米諸国に売るよりも、キューバに売ったほうが利益が大きい。そう考えた農産物業者は、これを機に生産品を売ろうと、キューバに押しかけるようになった。
p.186-187

キューバに群がるアメリカのセールスマン

2003年、ハバナのナシオナル・ホテルには、アメリカのセールスマンがひしめき、大広間では、さながら博覧会のようにアメリカの農産物が並べられていた。対米貿易の窓口であるキューバ食料輸入公社のペドロ・アルバレス総裁は、『我々は隣人同士だ。制限なしに交易しよう』と呼びかけた。アメリカの29州から140社257人が参加し、出席者の間では、『もっと儲けるために、経済制裁の全面解禁を米議会に働きかけよう』という声も上がったほどだ。
彼らは、対キューバ関係をさらに好転させてもっと生産品を売ろうと、アメリカ政府に対してキューバ制裁を解除するよう、積極的にロビー活動を行なうようになる。
p.187

亡命キューバ人の変化

マイアミのキューバ系市民90万人のなかでも、革命直後の60年代にアメリカに逃れた政治亡命者は、今や少数派だ。80年代に押し寄せた経済難民や、90年代以降の『出稼ぎ』が、今は多数派を占める。亡命者の子どもたちは、自分をキューバ人でなく、アメリカ人だと考えている。経済難民や『出稼ぎ』は、本国の家族に送金し、年に一度は帰国する。キューバを訪ねるキューバアメリカ人は、年間約12万5000人にも上っている。彼らのほとんどは、アメリカによるキューバ経済制裁に反対だ。
こうして、アメリカの対キューバ政策の背後にあった彼ら(亡命キューバ人)の圧力が弱まり、代わって農産物の輸出を狙う、米穀物メジャーの圧力が増したのだ。国政への影響力という点では、亡命キューバ人より穀物メジャーの方が大きくなった。政治はカネの論理で動くアメリカだけに、カストロの死後は、急速に両国の関係が進展するだろう。
p.189

急増するアメリカ人観光客

2006年には、約200万人の観光客が(世界各国から)キューバを訪れている。日本からの観光客も約1万人に上る。渡航規制しているアメリカからすら、年間約20万人がキューバを訪れているのだ。キューバ側も心得たもので、入国印をパスポートに押さず、別紙に押す。アメリカ人の観光客は、キューバを出たあとでその紙を捨てれば、キューバに入ったという証拠が残らない。さらに全米計20の自治体が、キューバ側と姉妹都市提携をしている。
p.190

革命前にアメリカ企業がキューバに持っていた権益

農民に分配した土地は、大農園や大企業の所有地で、大半がアメリカ企業のものである。この頃、キューバの耕作地の75%を、ユナイテッド・フルーツ社などのアメリカ企業がもっていた。
p.175