『緑の資本論』
- 作者: 中沢新一
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2002/05/02
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 6回
- この商品を含むブログ (31件) を見る
狂牛病とテロ、または対テロ戦争の背景
一部のチンパンジーや人間などだけがおこなっていたカンニバルの風習を、圧倒的な非対称の中で無力化させられた草食動物である牛に強いた結果、食品産業の土台を揺るがす事態が発生した。それによって食品産業とそれにささえられた私たちの食生活全体に、大規模なテロの一撃が加えられたような印象さえ受ける。これが人間によってつくりだされた状況であることは明らかであるとはいえ、私たちには、まるで牛たちが自ら人間の食べることのできない毒物に変態していくことによって、家畜となる運命をつくりだしているこの圧倒的な非対称の世界から、永遠の逃走を決行しているようにさえ思えるのだ。
こう考えてみると、狂牛病とテロは今日の文明の同じ病根から生じた、類似した構造を持つ病理であることがわかる。このような場合、狂牛病におかされたおびただしい牛たちを一括処分したり、テロリストと目された人物やグループを抹殺するというのも、こうした事態に向かい合った政府のとりうる可能な対処法の一つではあろう。だが、こうした対処法の有効期限は残念ながらきわめて短い。ほどなくして、同じ病根からは、別の形をとった狂牛病が発生するだろうし、抹殺に対する報復のテロが以前にもまして悲惨な形でおこなわれるにちがいない。テロはグローバル文明の深い病根から発している。
p.26-27
自分たちは一方的に奪われ、他方は一方的に奪うことによって、繁栄をとげている。この非対称をうち破るために、彼ら(テロリスト)は自分と相手をもろともに死のサクリファイス、しかしどこにも贈り届けられることのない死の贈与に巻き込もうとする。健全なエコノミーの回路を開くため、というよりも、それは圧倒的な力によって護られた非対称をつくりだしている全機構を、もろともに破壊したいという欲望にかられておこなわれるのだ。
p.29